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1年がかりで読了いたしました。
『本居宣長』(上・下) 小林秀雄 新潮文庫 1992/5 (写真)
本居宣長の『古事記伝』を読む前に読んでおこうと思い立っての読書でしたが。。。
かわいらしい、イチゴ模様のブックカバーも黒ずんでしまうほど、長い長い読書となりました。
ああ〜。
読んだ…。
ことにしてよろしいのかどうか…。
気が引ける…。
読了と同時に、また読み直ししたい!と思う本はこのごろ特によくあるのですが、この本もそんな衝動にかられました。
が、読まず!
いつか、
いつの日にか、
『古事記伝』を読了した後にまた!っ………。
その日がいつになるのか皆目見当つきませんけれども。。。
それでもしばらく読了の余韻にひたっていたくて、
「気になる文章の書き写しノート」(実際にはこんなタイトルはつけていません。単なるメモノート。それに、読書中の書き写しもめったにしませんし)をぱらぱらとめくり、
この度の長い読書生活(読んでいないときの方がほとんどですが)を偲びました。
するとその中に、こんな書き写しがありました。
“読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。”(上p,372)
これは、当時(およそ1年前)の、0歳児から絵本の読み聞かせを積極的に勧める子育てってどうなの?と考えていた私にヒットした文章でした。
絵本は0歳からの育児に必需。という風潮。というか今では常識(?)に、どうしても違和感を持ってしまう私ですので、この文章を読んで、ほら!と思い、書き写しておいたのだと思い出しました。
ほら!読み書きする前に、やっておくことがあるやん!って。
もちろん、それは本文の文脈とはズレたところでの私だけの「ヒット」です。
でも、そういう読みが私の読書の癖でもあるので、
それを思い返せると、
私の読み重ねの跡が見えてきて面白いです。
それで、その文章の前後をもう一度読んでみました。
そしたら、今度はまた別のことでヒットしました。
それは、私はしまいたくなってしまった「書き言葉」について、です。
というか、そう思うきっかけとなった、
たくさんの人によって書き続けられてる刺激のある言葉たち、について。
それらの多くはツイッターでの「つぶやき言葉」でした。
そもそも、なんでツイッターを「つぶやき」って言うんでしょう。
あれって実際は「広報」じゃないの?って思います。
大勢の人にむかって拡声器使って声張り上げて主張しているイメージ。
でも、やっている人の感覚としては「つぶやき」なのでしょうか。
そのつぶやいている感覚が“文字の扱い”をおろそかにさせ、言葉の羅列と刺激がエスカレートしていくのかもしれない。と思ったのです。
“黙して自問自答する道”など考えもせずに。
読む側の私もまた、「つぶやき」を聞くつもりで読んでしまうので、油断して無防備になっていますから、受ける衝撃も大きいのかもしれません。
ツイッターに限らず。
ブログでも、メールでも。
書き言葉(文字)の扱いは要注意。とあらためて。
ああ、もちろん、そういうことが書いてある本ではありません。
じゃあ何が書いてあるのかと言えば…。
って、そこは聞かないでください。
“黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く”途中ですゆえ。
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